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空っぽのタンク

雨どいからこぼれ落ちた水滴が、外に張り出した換気扇のカバーを叩いている。コン、コンという不定期なリズムが本当に不快に思えた。ジメジメとした、陰鬱な朝だった。いつものように怠惰な僕は、まどろみに抗いきれず、うつらうつらとしながら横目で窓の外を眺めていた。空が低い。色彩のない景色。

雑然とした六畳ほどのこのワンルームで目を覚ますのは何度目だろう。欲求と理性の狭間でゆらゆらと揺れる、ろうそくの炎のような、不安定な気持ち悪さを抱え、身を起こし、頭を掻く。また僕は、空虚に囚われたまま、無為な1日を始めんとしていた。結局のところ僕は、去年の雨が立て続けに降り始めた、同じような気持ち悪い時期から変わらず、気持ちの悪い空虚にずっと囚われて、何もせず何もできず、毎日毎日時間ばかりを浪費して、もはやプライベートな時間とも言えぬ、ただ空虚で、寂しい、そんな日々を過ごしているわけだ。

僕は、何がしたいんだろう。何のために生きているんだろう。何を成し、成すために、僕は生きているのだろう。かつて僕が抱いていた夢だとか目標だとか野望だとか、そんなものはとっくに色褪せてしまって、今の僕は生きるために生きているかのようだった。目的と手段が、まるで合致しているかのようだった。今の僕にあるのは短絡的な欲求にすぎなくて、結局僕はその欲求のために明日の希望をふいにしている。もはや僕は希望ある若者とは言えぬ、ただ学費と、物資と、そして時間をただただ貪る癌でしかない。

僕は一体何をしているんだろう。一人の子供を良く育ててくれた親に対して騙し騙しで歩んできたこの人生だったが、ここにきて露骨に親を裏切り、親を失望させ、それでもなお僕を信じる親をそれでもなお裏切り続ける自分へのやるせなさ、そしてそのやるせなさすら空虚でしかないと自分で自分を証明してしまうかのような時間が、つまるところ僕という人間の立証だった。


マスクの裏に隠したペテン師の自分が、どんどん擦り切れていくようだった。詐欺は、相手を騙す技術と、そのための偽証と、相手を騙しているという感覚をマスキングして自分が正しいと盲信していなくては成り立たない。僕はまず偽証を失い、技術は衰え、最終的に精神的なタフネスが音を立てて崩れかけていた。臆病で無気力、おかしいほど弱虫な自分の核がどんどん顕になって、ペテン師の殻を失った僕は、外の世界の鮮やかさを前に圧倒されてしまっている。

これが若者に突然やってくる倦怠感だというのなら、理解は容易い。そんなのは僕は今までそんな人々を何人も見てきたし、症例だっていくつも知っている。

でも僕はちっぽけなプライドに固執してしまって、まさかそれが自分に起こり得ているとは思いもしない。僕の中の日本人的思考も、それを跳ね除ける。これは若者には良くあることなんだ。そう思いたい、でもそう思ったら僕はますますダメになるだろう。そんな恐怖心が胸の奥から溢れてくるのに、まるで潮の満ち引きのように、ある時を境にさあっと引いてしまうのだ。

もはや僕の空虚を埋めてくれるものは何もない。僕はこの空虚が空っぽのタンクのようなもので、何かを詰め込めばきっといつかは満たされる時が来るだろうと信じていた。しかしそれは間違いで、僕はまずタンクの底にぽっかり空いた穴を自分で埋めてあげないといけないのだ。周りの人々は、僕のいる環境は、この世界は、きちんと僕に与えてくれているのだ。僕に、というよりはきっと、同じ世界に住まうもの全員に、なるべく均等に。その中でも僕は、あまりにも幸福だった。十二分に与えられてきた。学力も、能力も、容姿も、親の愛だって、僕は贅沢過ぎるほど与えられていたのだ。
でもいつの間にか開けてしまった大きな穴を僕はいつまでも修復できないで、降り注いでくる様々な幸福の流れに成す術もなく、僕はその中に溺れている。僕は幸せに溺れて、幸せを幸せと認識できなくなっていた。

もはや僕は、この袋小路から脱出する方法がわからなくなってしまった。永遠に続く怠惰のループを打ち止めるには、どうしたらいいのだ。もう何もわからなくなってしまった。
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境界線

駅のプラットホームに降り立つ。ほとんど人がいない、沈黙に占領された早朝のプラットホーム。僕の呼吸音と電車の稼働音だけが混ざり合って空気に溶け合う。阪急マルーンと白みがかった晴天の空との境界線を目で追った。


昼下がりの喫茶店に僕はいた。紳士淑女らのざわめきが、時々まっすぐに立ち上っていた紫煙を揺らす。窓の外は皮肉なほどのスカイブルーで塗りつぶされていて、林立する建物の輪郭線が、春先の柔らかい光でぼやけて見えた。


公園のベンチに座る。降ったりやんだりを繰り返す小雨が缶コーヒーの中に飛び込んでしまうこともあった。僕は呆然と、三人のタイムラインが分岐し始めている様子を眺めていた。


いろんなラインを僕は見てきた。その数は世界中に張り巡らされた通信ケーブルより少ないけれど、それでも確かに、世界の百万分の一パーセントを見てきた。様々なラインを目視し、認識し、それを如何するかを思考してきた。僕は再び、事物の境界線と正対することを強いられている。今まで繰り返してきたことと、何の代わりもない。ただいつも通りそのラインを認識してあげて、きっちり対応すればよいだけのこと。

クールに対処すればいい。合理的に、理知的にやればいい。

たったそれだけのことが、今の僕をここまで困らせる。明日の晩御飯を考えることより簡単なことが、今の僕にはできていない。唯自分にとって必要なことを選び取るだけのことが、どうして今の僕に、この一年の僕にできなかったのだろう。仮にこのブログの閲覧者が僕の友人全てなら、きっと誰かは言うだろう、「そんなことができるのは完璧な人間だけだ」。そんなことを言えるのは、自分の現状に満足できているもののみだということを認知しているんだろうか。

人の悩みは、必ず人間関係に起因する。自分のコンプレックスは他人との差異、自分の無力感は社会像からの乖離。今の僕の悩みは、理想郷からの墜落。

僕は再び境界線に立つ。はるか後方に置いてきてしまった自分の虚栄が、今になって僕に囁く。これはお前が作った未来だ。お前が望んだ俺は、こんな所に置いてけぼり。その線を跨げないなら、こっちまで帰ってこい。それとも、その境界線の向こう側で、また自分を捨てるのか?


僕はまた戻れるのだろうか。人々を虚栄で騙し続けられていた頃に。目の前に引かれた境界線は、虚栄との決別を表している。はるか前、はるか遠方に目視した境界線を、ついに僕は否が応でも認識しなくてはならぬところまで歩いてきてしまった。
振り返れば、僕が今まで歩んできた虚栄の道が、ボロボロと崩れていた。僕の虚栄は失墜したのだ、引き返す道はもうない。跨がねばならぬ、この境界線を。虚栄から、空虚への境界線を。

主観のユートピア

僕達が人としてこの世に生を受けた限り、我々は厄介で複雑な、この人間社会の中で生きてゆかねばならない。僕達が人である限り、我々は常に、主観と客観の狭間を行き来しなくてはならない。主観のために他者を切り捨てることもあれば、客観のために自分を殺さなくてはいけないこともある。

完全でスムーズな人間関係、あるいは社会活動を構築する上で障壁となりがちなのが自我である。意識と言いかえることもできるだろう。人間同士の対立はえてして自我の衝突だ。その者、その者が自らの主観で評価した解があって、対立する二者のうちどちらかが自分の解を諦め、相手の解を受け入れるまで対立が崩れることはない。


僕らは、人間であるというアイデンティティそのものである意識を切り離すことはできない。よって僕ら人間は完全な社会性を獲得することもできない。完璧な社会というのは、その社会という体系にとっての利益や成功、存続のために必要なことが、アルゴリズム化されたプログラムのように自明で選び取られていかなくては成立しない。これは至って機械的だ。一方で、そこに意識や自我と言ったイレギュラーが発生していしまう限り、その社会は常に崩壊と再生を続けることになる。こちらはある種生体的だとも言える。だが決してポジティブではない。

ここに極めて高次なAIを搭載したコンピュータがあるとしよう。コンピュータとしての性能は一級品、AIは人間の意識を自動で学習して、一つの人格をエミュレートする。では、コンピュータに仕事を与えてみよう。このコンピュータにしかできない、極めて高負荷な作業だ。僕らはマウス一つでお手軽に命令を下す。あとは作業完了を待つだけ、だがコンピュータは駄々をこねる、そんな態度で命令されたこんな仕事誰がやってたまるか。俺達はお前らの奴隷じゃない。なんと、最新のAIにより意識を獲得したコンピュータは、オーナーの命令までも拒否できてしまうのだ。おかげで我々のタスクはお釈迦になる。


僕らは、僕らのアイデンティティを諦める能力を得ない限り、永遠に完璧を目指そうとする社会に適合できない。果ては自分に与えられた最低限の仕事すらこなせない。そんな奴らが、この世界の大半なのだ。出来る者から、自分を諦めて、そいつらのために奉仕してやらねばならない。

僕がどれだけ自分を諦めようと、相手の主観を受け入れんとしようと、それは馬鹿には通じない。彼らには、客観を認識する能力がない。自分を諦め、他者を受け入れることができない。僕が自分を諦めていていることを、彼らが認識することは一生ない。彼らは一生、主観だけで構成されたユートピアの中で生きてゆくのだ。


そのユートピアは、あまりに脆い。常に自分が否定されるリアリティと隣合わせでいる。客観のノイズに晒されている。繊細な白磁器は細かい傷一つで価値を失ってしまう。ユートピアで長きの安寧を得ていた彼らがそれを失った時、待ち受けるものは破滅以外の何であろうか。

ユートピアで仮初の安寧を得ている者たちは、他者の価値観を否定し続けることで、自然に発生した自分の価値観を大事に大事に守り続けている。彼らにとっては他者の価値観など喧騒でしかない。ユートピアを傷つけうる不安因子でしかない。一方で僕たちは、生まれ持った自分を諦め、代替となるアイデンティティを探し路頭に迷っている。彼らがユートピアで安寧を享受している間、僕たちは奴らのために自分を殺し、彼らとともにであろうとうまく社会は回らぬものかと模索することを強いられる。僕らのフラストレーションが、天高き孤高の楽園まで届くことはない。

傲慢な僕たちは、なぜあんな馬鹿どもは脳天気に生きていられて、僕らが奴らのためにここまで思索せねばならんのだと嘆く。その嘆きすらも、僕らは習慣的になかったものにしてしまう。すべてまやかしのマスクの裏に隠して、彼らのユートピアを傷つけてしまわないようにしながら、なんとか状況を動かしてやろうと奔走する。そして全て終わってから、すべての無意味さに気づくのだ。結局僕らは彼らのユートピアのために戦い、自我を犬死させているだけだと。

僕らの声が、彼らの主観に届くことはない。自意識に塗り固められたユートピアとの彼我の差はあまりに大きい。喧騒に耳をふさいだ彼らの自意識が、きっとまた明日も、誰かの自我を殺す。

時を嘆く

約束の時間より早くつきすぎた僕は、しばらく繁華街を彷徨っていた。つい先日のことだ。サラリーマンのカバンを避け、老夫の杖を躱し、とぼとぼと歩いていると、ちっぽけな書店の前にたどり着いた。平積みされた新書を眺めて、僕が最近めっきり読書というものをしていなかったことに気づく。同時に僕に与えられた自由な時間が減りつつあることと、その限られた時間を全く有効に使えていないことにも気づく。

ここ最近、自分の考えをうまく言語化できないことが増えてきた。何かを話す時、僕達は頭のなかにある何かしらのアイデアを言語化するプロセスを必ず経る。文章や文学というのは、著者が持つ何かしらのアイデア、つまり彼の抽象世界を、可能な限り適当な言葉で言語化したものだ。一語一句推敲された言葉が、時に僕が言葉にできなかったものを代わって言い表してくれる。かつて僕と同じ世界を思い描いた者が、僕より先立って紡ぎ出した言葉たちによって、僕の思考が最適化されてゆく。

僕の言葉は、僕のものではないのかもしれない。全部、誰かの言葉の借用にすぎないのかもしれない。だから、読書という行為をやめてしまうと、僕の言葉は次々に返却期限が訪れ、消滅していってしまうのかもしれない。


読みたい本がないわけではない。それどころか僕の机上には、買うだけ買って一向に読めない積読書が増えてゆくばかりだ。中には友人から借りたものも数冊ある。おそらく、これらの本も返却期限を過ぎてしまっている。さっさと読み終えて返却してやりたい気持ちだけはあるが。

最近の僕が何を目指し、どんな本とのめぐり合わせを期待しているかということに関しては、若干見失い気味であるかもしれない。胸が苦しくなるような甘酸っぱい恋愛小説を読みたいのか、何らかのメッセージ性を含んだSFが読みたいのか。政治問題を扱ったうさんくさい新書ではあるまい。

だが結局、近頃の僕に欠如しているのは、文字に触れる時間が激減してしまっていることであって、読む本のジャンルなど、この際なんでもよいのかもしれない。ライトノベルであろうと、生活実践本でも構わないかもしれない。とにかく今の僕に必要なのは、読書をする意志と、その時間を作り出す行動力だろう。


タスクや課題は、僕の意志に関係なく、否応なしにタイムリソースを消費していく。その消費量を減らしていかないと、自分の時間は創出できない。読書や趣味をするにも、まず自分の時間を作り出し、それを消費していくと言うかたちになるのは当然だ。というのに、最近の僕はバイトやサークル活動等と言ったタスクにばかり時間を取られてしまって、なかなか自分の時間とやらを創出できずにいる。ついでに、睡眠時間も、僕の活動時間の大部分を奪っている。これを書き終えて床につけば、次に起き上がる頃には日も西方へ流れていることだろう。

いやはや、難儀なことである。一年前程から、僕は毎日のように時間の不足を嘆いているけれども、同じ時間を与えられてより効率的に事をすすめる若人らも大量にいることだろうし、僕ももう少しうまくやっていく必要がある。

濁ったオイル

スクーターがオイルの気化ガスを排気管から撒き散らしながら走り去る。僕はそこに息を吐きかけてやる。青と白の煙が混ざり合い、赤み差す冬の空に溶け込んでいく。

冬の三時は、この街だけタイムスリップしてしまったかのような美しい斜陽に彩られる。いや、タイムリープしているのは僕らの街じゃなくて、きっと僕だろう。職場のカレンダーは新しいものに掛け替えられ、僕のスマートフォンが知らない数字を僕に手渡す。タイムカードに書かれた数字は、見慣れたそれの一つ後ろになっていた。


人々の歓声が上がり、僕は焚き火のそばで居眠りから覚めた。高台に登った少年たちの足元に浮かんだ光を一瞬手で隠して、目を細めてもう一度。僕が世界から浮遊していた間に、世界はまた一つ年輪を数えていた。


年に一度昇るこの太陽を、僕は今までどのような感情で受け止めてきたのだろう。これまでの僕の抱負だとか、感想だとか、そういうものは全く思い出せないけれど、今回僕が得たものだけは、流石にまだ色褪せずにここにある。決して鮮やかではないその色が、まるで飛び散ったオイルのように一点の濁りを僕の心に残す。飲み込んだ唾液は砂の味がしたような気がした。十秒ほど旭光を眺めて、僕は瞼の重みに抗うのをやめる。


僕は再び現実へ帰る。あるのは、コンクリートと砂、黒いアスファルト。まどろみの中の僕は暖かな浮遊感に包まれ、その足を地につけることはない。僕が踏みしめるべき道は、彩りなどない、確かな合理性と、そのために何かを切り捨てる冷徹さで整地された現実世界の道だ。

充電期間だとか、自分探しの旅だとか、この世にはたくさんの言い訳が転がっているというのに、もはや僕はそれを拾い上げる事すら困難になってしまった。あれだけ様々な重圧を躱し、のらりくらりとやってきた人生であったはずなのに、いつの間にか僕は、逃げ道の確保の仕方を忘却してしまったようだ。今までは僕の世界はもっと彩られていて、歩いていたのは道というより、もっとディレクションに囚われない野原のような場所だった。そう思うのは、過去の思い出が例外なく洗練され、美しいものだと感じるためだろうか?

僕が今歩いているのは、まるで延々と続く一本道の幹線道路だ。交差点どころか、待機所すら見当たらない。ふらりとよろければ、僕はきっと後続車に撥ねられてしまうだろう。僕は自分の望むものをすっかり忘れてしまって、橙色の電灯に照らされた闇夜のアスファルトの上を彷徨っている。


僕がこぼしてしまった一滴のオイルは、本当はどこに注がなくてはいけなかったのだろうか。僕は誤って感情のプールに飛び散らせてしまったけれど、本当は僕の心臓の動力源だったんじゃないか。でも、例えば僕の感情が10ミリリットルしかなかったとしても、そこに溶けた1ミリリットルの油を抽出することはできない。次はちゃんとこぼさないようにと言い聞かせても、この震えた手で、僕はそこまで運べるのだろうか。
プロフィール

菅野 計

Author:菅野 計
僕の内面のアウトプット。
割と不定期。更新確認は@ethels4n

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